北斎館収蔵「祭屋台」大解剖①

東町祭屋台天井絵「龍」図

東町祭屋台天井絵「龍」図天保15(1844)年。85歳の北斎先生は小布施に滞在し、約半年をかけて東町祭屋台の天井絵「龍」と「鳳凰」図を描きました。

「龍」図は、燃えるような紅の地に飛翔する龍が描かれ、そのまわりを激しい波しぶきが囲みます。海上を飛ぶ猛々しい龍の様子がよく伝わってきます。

また、「鳳凰」図は暗い藍の地に描かれ、ふたつの図は対照的です。龍と鳳凰は、祭屋台の天井で見つめ合うように構成され、一対としての印象を強めています。

 

 

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北斎館は今年、開館40周年をむかえます。

これを記念して、今号から館の収蔵展示のなかでも特に見応えのある東町と上町の祭屋台を紹介します。北斎先生が手がけた迫力満点の天井絵のほか、彫刻や縁絵など、見どころを大解剖してお届けします。


かつて小布施の夏をにぎわせた祇園祭の祭屋台

小布施の皇大神社には、金比羅社、西宮社などとともに八坂社が祭られています。

かつて旧暦6月に行われていた祇園祭には、東町、上町、中町、横町、伊勢町、福原、六川から7基の祭屋台が練り出して、祭を盛り上げていました。

江戸末期から明治初期にかけてつくられた祭屋台は、寄付金を集めたり、豪商や豪農が私財を投じて、競うように豪華に装飾されました。なかでも東町と上町の祭屋台は「北斎の屋台」として特に注目を集めたといいます。

現在、この2基は長野県宝に指定され、北斎館に展示されています。残り5基は「おぶせミュージアム・中島千波館」に収蔵展示されています。

東町祭屋台

logo_28_05記録では、東町の祭屋台は文化2(1805)年に町方衆の寄贈によって再建されたとあり、現存する7基のうち、もっとも古い歴史をもっています。

その後、天保15(1844)年に改造される際、高井鴻山の依頼を受けて、北斎先生が天井絵「龍」と「鳳凰」図を描きました。その依頼は当時の小布施村民の意向を受けてのことだったといいますから、先生に寄せる人々の思いがうかがえます。

屋台は二輪の台車が支え、前後左右に引き手や押し棒、梶棒があり、曲線を描く唐破風の屋根をもつ2階建て構造となっています。

1階には笛、太鼓、三味線などの囃子方が入り、祭囃子を奏でました。周囲の窓には御簾を下げ、欄干をめぐらせてあります。2階は舞い方が踊る手すりつきの舞台となっています。

屋台の建造は、越後国(現在の新潟県)の大工棟梁、栄太郎が手がけました。欄間の彫刻は、高井野村(現在の高山村)の宮大工、三代亀原和田四郎によるものです。

上町祭屋台

logo_28_06上町の祭屋台は、高井鴻山が私財を投じてつくりあげました。弘化2(1845)年、前年に引き続いて小布施を訪れた北斎先生が、天井絵「男浪」「女浪」図と装飾の制作に携わりました。

東町の祭屋台よりもひと回り大きく、唐破風屋根の2階建て、台車つきの構造は一緒です。こちらも東町の屋台と同様、釘1本使わずに組み上げてあります。

1階には囃子方が入り、2階は飾り屋台として仕立てられ、中国の伝奇小説『水滸伝』にちなんだ見事な彫刻が飾られています。

軍師、皇孫勝が剣を抜いて呪文を唱え、海から龍を招く姿をあらわしたこの彫刻は、北斎先生が監修した唯一の立体造形です。皇孫勝は亀原和田四郎が、龍は江戸の人形師、松五郎がそれぞれ手がけました。

 


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北斎先生は晩年期の天保13(1842)年から翌年にかけて、唐獅子や獅子舞を描くことを日課としていました。

獅子は、ライオンをイメージした架空の動物です。日本では古来、猪や鹿といった獣を「しし」と呼んでいたことから、中国から伝わった想像上の動物である獅子を「唐獅子」と呼んで区別しました。

邪気を払う守り神とされ、狛犬とともに神社の参道両脇に配されるようになります。80代となった北斎先生は、唐獅子を描いては軒下に捨てていたそうですが、病や災いを払うまじないのような思いを込めていたのでしょうか。

娘の応為や弟子たちが拾い集めた絵の数は230枚余りにも及びました。弘化4(1847)年、これらの作品をまとめて「日新除魔」と名づけ、松代藩士、宮本慎助に与えたという記録が残っています。

「日を新たに、魔を除く」と意味するこれら作品群は、注文作品とちがい、気の向くまま、自由に伸び伸びとした筆づかいで描かれ、先生晩年の腕の確かさを伝えます。