葛飾北斎氏 天にのぼる

浮世絵界に大きな衝撃

葛飾北斎我が国浮世絵界の重鎮葛飾北斎氏は、四月十八日暁七ッ時(午前四時頃)、浅草聖天町遍照院境内にある仮宅で逝去されたとのことです。

関係者の話によると、北斎氏は今年の春になってから体調が思わしくなく、寝床に伏す日が続き、娘さんのお栄さん(葛飾応為)がつきっきりで看病にあたっておられましたが、ついに十八日早暁、天にのぼられたとのことです。

この知らせをうけた浮世絵関係者はもちろん、各お武家衆、町方衆も驚きをかくすことができず、江戸の町は大きな騒ぎとなっています。

北斎氏は、宝暦十(一七六〇)年、江戸本所生まれ。若くして浮世絵界に飛び込み、勝川春章門下で活躍の後、独立して次々と傑作の浮世絵を発表。代表作に、『冨嶽三十六景』『富嶽百景』『北斎漫画』『諸国名橋奇覧』『北斎肉筆画帖』『日新除魔』『東都名所一覧』、また信州小布施の祭り屋台の天井画を描くなど数え切れないほどの名作を残しています。絶筆は「富士越龍」図です。絵師としての号(名前)を、たびたび変え、その名前の数は、三十回に及んだと言います。最近は「画狂老人卍」を名乗っていました。

北斎氏の影響を受けた浮世絵師は大勢で、文化文政時代(一八〇四~一八三〇)の江戸文化の成熟期には、北斎氏の浮世絵は、全国で大人気となりました。

北斎氏の葬儀は四月十九日朝四ッ時(午前十時)から、菩提寺の誓教寺(さいきょうじ)で営まれました。享年九十。
戒名は「南牕院奇譽北齋居士(なんそういんきよほくさいこじ)」。


本物の画工になったであろう

北斎氏の最期の様子が、弟子の一人露木為一氏によって明らかにされました。

北斎氏は、「天我をして十年の命を長ふせしめばと言い、暫くして更に言いて曰く。天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし」と言い残したそうです。つまり、北斎氏は、「天があと十年の間、私に命を与えてくれたなら」と言い、しばらくしてさらに、「天があと五年の間、命を保つことを私に許してくれたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう」と言われたそうです。

亡くなられる直前まで、絵のことに執念を燃やされた北斎氏ならではの言葉と、関係者は、深い感銘を受けています。


高井鴻山 小布施に財産を残した北斎先生

祭屋台など北斎先生が信州小布施に来られたのは、八十三歳になられた天保十三(一八四二)年のことでした。先生は私よりも四十六歳も年上です。祖父と孫に近いくらいでした。先生が信州に来られた背景を考えますと、天保年間は大飢饉が相次ぎ、人々の心が荒れていた時代でした。幕府は、全国に厳しい倹約令をしき、歌舞伎や浮世絵を楽しむことさえ禁止しました。「天保の改革」(天保十二年~十四年)です。

先生も自由な創作活動ができなくなりました。そんなとき、かつて江戸で先生に親しくさせていただいた小布施の私を思い出し、田舎に行けば、江戸にいるよりは少しは絵が描けるかも知れないと考えられたのだと思います。

絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を奏でたりすることを政治の力で押さえ込もうとする時代は、ろくな時代ではありません。

先生に、祭り屋台の天井絵を描いていただけたのは、小布施にとって、かけがえのない大きな財産となりました。
先生に感謝申し上げ、ご冥福をお祈りします。

 

 

 

 

 

 


歌川広重 偉大な先輩の業績を偲ぶ

歌川広重私の最も敬愛する北斎先生がお亡くなりになられた。何とも言えない悲しみが、いま私を包んでいます。

先生は私たち浮世絵師の偉大な先輩であり、我が国ばかりでなく、世界の美術界を代表する偉人であります。
私はいま五十三歳ですから、先生とは三十七歳違いです。しかし、先生は常に革新的で、技法にしても挑戦し続けるといった方でした。大きく言って浮世絵界は私の所属する歌川派が全盛の時代です。先生のように、どこのグループにも所属せず、ただ一人我が道を歩まれ、画業を大成されたのは、他に渓斎英泉のみで、その点からみても大変な努力家であり、並大抵のことではありません。

私が先生の「冨嶽三十六景」に衝撃を受け、「東海道五十三次」を描いたことはいうまでもありません。それほどにこの作品は、我が国浮世絵界の宝といっても言い過ぎではありません。特に「神奈川沖浪裏」や「山下白雨」など構図のみごとさ、遠近法、静と動の対比には感服いたします。私の絵はどちらかというと、叙情的に描くのに対し、先生は題材に対し非常に乾いた目で描かれています。
世の中では、北斎と広重はライバルなどと騒ぎ立てますが、私には大それたことで、大変迷惑しております。

日本も外国船がたびたびやって来て、長かった鎖国の時代もそろそろ終わることでしょう。世界の画家たちに学び、これからの美術界をもっと盛り上げていくことが、先生への恩返しかと考えております。
先生の御魂が安らかならんことをお祈りして。


北斎氏、生活の謎


北斎氏、激動の人生を振り返る

柳下傘持美人飾北斎氏は、宝暦十(一七六〇)年九月二十三日、江戸本所割下水に生まれ、幼いときの名を時太郎と名乗りました。

四歳ころ、幕府御用鏡師中島伊勢の養子になったと伝えられています。

幼いころから絵が得意で、十九歳のときに当時、錦絵で有名な勝川春章に弟子入りをし、「勝川春朗」と名乗りました。春朗時代の一五年間は、役者絵や美人画など数百点余の錦絵、版本の挿絵を描くなど活躍しましたが、寛政六(一七九四)年、独立して桃山時代の俵屋宗達、本阿弥光悦などの流れを引く琳派の絵師「俵屋宗理」を名乗り、それまでとは違う北斎氏独自の画風を切り拓いていきました。
寛政十(一七九八)年、三十九歳のとき、名前を「北斎辰政」と変え、世の中に売り出していきます。このころの代表作に肉筆画の「柳下傘持美人」図があります。

江戸時代の文化が花開いた文化年間(一八〇四~一八一八)には、当時有名な読本作家滝沢馬琴とコンビを組み、『椿説弓張月』など読本の挿絵で、江戸の町民を熱狂させる人気絵師となりました。
文化七(一八一〇)年には、再び名前を変え、「戴斗(たいと)」と名乗りましたが、そのころには弟子も二百人ほどになり、その教科書用に絵手本の制作に力を入れます。有名な『北斎漫画』はこのころのものです。

還暦(六十歳)を迎えた文政三(一八二〇)年にまた名前を変え、「為一(いいつ)」と名乗ります。この号はその後一四年間にわたり使っています。この時代は、北斎氏の名前をもっとも有名にした「冨嶽三十六景」はじめ「諸国名橋奇覧」などの代表作を描いています。
晩年の天保五(一八三四)年、再度改名して、「画狂老人卍」を名乗ります。古典を題材にした絵を多く描いています。

天保十三(一八四二)年、信州小布施の高井鴻山を訪ね、鴻山の支援のもと、東町・上町の祭り屋台の天井絵を描くなど精力的な作画活動を続けたのです。
まさしく北斎氏は、天才浮世絵師であったのです。

 

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