旅する北斎⑤

上町祭屋台飾人形 「皇孫勝」と「応龍」像

 「皇孫勝」と「応龍」像

「皇孫勝」と「応龍」像

上町の祭屋台は高井鴻山が私財を投じて新たに造りあげたものです。

2階の飾り舞台は、中国宋時代に書かれた『水滸伝』に登場する軍師、皇孫勝が剣を抜いて龍を呼び出し、その龍が巻き起こす風によって起こる大波を、彫刻と天井絵であらわしています。

皇孫勝は高井村の彫師、亀原和田四郎嘉博が、龍は江戸の人形師、松五郎が手がけました。

北斎先生がプロデュースした唯一の立体造形物です。

嘉博はなかなか先生の許可が得られずに何度も作り直し、これでダメなら彫刻の道を断念しようと考えた最後の7回目で、ようやく北斎先生のOKが出たといいます。

 


旅する北斎⑤完結編 信濃の国、小布施の巻

旅のシリーズも今回が完結編、北斎先生は小布施へとやってきます。

きっかけは、小布施の豪農商、高井鴻山との出会いでした。

祖父と孫ほど年の離れたふたりは互いを認め合い、信頼関係を築きます。そして北斎先生にとって最後の大仕事ともいえる大作に取り組みます。

高井鴻山と出会い 北斎先生、小布施へ

信濃の国小布施天保時代は日本各地で冷害や洪水がしきりに起こり、江戸三大飢饉のひとつといわれる「天保の飢饉」が天保4(1833)年から7年間にわたり人々を苦しめます。

混乱した世の中を立て直すために幕府は「天保の改革」を行い、贅沢を禁じ、歌舞伎や音楽などの娯楽にも制限をかけます。それは浮世絵も例外ではありませんでした。

北斎先生は思うように絵の描けない江戸を離れ、高井鴻山の招きに応じて天保13(1842)年にはじめて小布施を訪れます。当時、北斎先生83歳、鴻山37歳でした。
祖父と孫ほど年の離れたふたりですが、やがて互いに「旦那さん」「先生」と呼び合うほど親密な関係を築いていきます。

東町祭屋台

東町祭屋台

鴻山は文化3(1806)年、小布施の豪農商の家に生まれ、15歳から16年間、勉強をするためにまずは京都へ、続いて江戸に出ます。そこで国学や儒学、書や絵画といった学問や芸術を修めるとともに、幅広い人脈を築きます。

同じく小布施の豪商に小山文右衛門がいました。彼の営む十八屋は江戸日本橋に支店を構え、呉服や漢方薬、飛脚などを手広く商っていました。北斎先生はこの十八屋と親しく、お金を借りることもあったといいます。

鴻山もまた同郷の十八屋に出入りしていたため、ここで北斎先生と鴻山は出会った、といわれています。あるいは、すでに京都でその名声を聞いていた鴻山が、江戸へ出た折に先生を訪ねたともいわれ、ふたりの出会いには諸説あるようです。
いずれにしても、小布施へとやってきた北斎先生を、鴻山は歓待します。


鴻山の厚い支援のもと 大作に打ち込む北斎先生

北斎から〝旦那様〟に宛てた手紙

北斎から〝旦那様〟に宛てた手紙

天保11(1840)年に父親の死去により帰郷し、家を継いでいた鴻山は、すでに地元の名士であり、一流の文化人でもありました。

鴻山は、その後もたびたび小布施を訪れ、しばらく滞在して制作に打ち込む先生のため、離れの別宅を「碧漪軒」というアトリエとして提供します。

さて、北斎先生が鴻山から依頼され、小布施で手がけた作品に、東町、上町の祭屋台の天井絵と彫刻があります。

北斎先生は天保15(1844)年に半年ほど小布施に滞在し、まず東町祭屋台の天井絵「龍」と「鳳凰」図を描き上げます。

「龍」図は、しぶきを上げる波頭が周囲を取り囲むなか、燃えるような紅の地に飛翔する龍が描かれています。
対する「鳳凰」図は、暗い藍を基調とした背景に、首や羽を鮮やかな朱色で彩った鳳凰が鮮烈に描かれます。

上町祭屋台

上町祭屋台

さらにその翌年、再び小布施を訪れた北斎先生は、続いて上町祭屋台に取り組みます。天井絵の怒濤図「男浪」と「女浪」は、両図とも砕け散る波頭、逆巻く大波など、大海の荒々しさを見事に表現しています。

四方を彩る縁絵は、先生の下絵をもとに鴻山が色を塗ったとされています。
「男浪」図の縁絵には、金地に伝説上の動物である極楽鳥、麒麟(または犀か)、唐獅子、孔雀が数種類の草花とともに描かれています。

これに対して「女浪」図は、金地に西洋をイメージさせる花々が彩り、動物のリスと驚くべきことに、左下には翼をつけた天使の図が描かれています。

「皇孫勝」と「応龍」の彫刻なども合わせ、完成は翌3年までかかりました。

ほかにも北斎先生は岩松院の天井絵など、最晩年の集大成ともいえる大仕事を、鴻山の手厚い支援を受けながら小布施で成し遂げるのです。