旅する北斎③

「菊」

logo_20_1菊の花の観賞は、江戸に暮らす人々の楽しみのひとつでした。

当時、園芸ブームともいえる人気を背景に、さまざまな品種が生み出されます。
「厚物」「広物」「管物」に分類される「大輪菊」や「古典菊」など、あらゆる種類の菊花が、「双幅」といって左右一対の掛軸として描かれています。

きわめて細かな線描と彩色の濃淡により、立体感と遠近感を見事にあらわしています。

 

 


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旅のシリーズ第三回は東海道随一の城下町、尾張名古屋です。

大坂、伊勢、紀州、吉野からの旅すがら、北斎先生は名古屋に立ちよります。
町の繁栄とともに独自の文化が花開いた地で、弟子や版元との交流をとおして大ベストセラーが生み出され、さらに一大パフォーマンスが行われます。

 「見たい!描きたい!」思いついたら即実行!?

logo_20_3江戸で活躍していた北斎先生が、なぜ名古屋から『北斎漫画』を出版したのでしょう。

文化9(1812)年秋頃、当時「戴斗」を名乗っていた先生は名古屋を訪れ、尾張藩士で弟子のひとりである牧墨僊の家に滞在します。そこで先生は約300図余りにおよぶ絵図を描きあげました。

その絵の面白さに目をつけたのが、名古屋の版元「永楽屋」の二代目店主であった東四郎です。
江戸時代、名古屋は江戸、大坂、京都に次いで本の流通が盛んでした。永楽屋は本居宣長の『古事記伝』を出したことでその名を広く知られていました。

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江戸の浮世絵師と名古屋有数の版元の出会いがきっかけとなり、文化11(1814)年、先生55歳のとき『北斎漫画』の初編が発刊されます。
これが写真もインターネットもない時代、絵手本として大いに人気を呼びました。

続編が次々と出版され、先生が90歳で亡くなられてから30年近く経った明治の頃まで全15編が発刊されます。

驚異のベストセラーといえるでしょう。


先生、大ダルマを描いて一躍城下の人気者に

『北斎漫画』初編の発刊から3年後の文化14(1817)年、北斎先生は再び名古屋を訪れ、1年間ほど滞在します。このとき120畳分の紙に大ダルマを描くというパフォーマンスを行います。

会場は西本願寺掛所、現在の名古屋市中区大須にある本願寺名古屋別院です。大須は昔から見せ物や興行が盛んな場所でした。この催しを知らせる引札(ポスター)が本屋の店頭に貼られ、イベントに合わせてか、筆や硯なども売られるほどでした。

10月5日、会場では大勢の見物人が見守るなか、先生と弟子たちが袴姿にたすきを掛けて、見物人の前に現れます。このイベントの様子は、尾張藩士の高力猿猴庵の『北斎大画即書細図』に記されています。

logo_20_5① まず、会場にダルマ図を飾るための足場を丸太で組み、120畳の大きな紙を敷きます。紙の上はホウキできれいに清めます。

② 昼過ぎ、先生は三種類の筆を使い分けてダルマを描いていきます。ダルマの顔はしゅろボウキ、髪の毛とヒゲはそばがらの筆、衣の線は米俵五俵分のワラを束ねた大きな筆を使いました。

③ ダルマの衣装は墨で描いたあと、ひしゃくで赤い絵の具を撒き、仕上げにホウキでぼかしながら色づけをしました。

④ 夕方、出来上がったダルマ図を足場へ引き上げるのですが、さらにまだ絵が地面についているので、足場の丸太を継ぎ足して、やっと全部引き上げることができました。

城下はこの話題で持ちきりとなり、名古屋の人々は先生のことを、「だるせん(ダルマ先生)」と親しみを込めて呼びました。

残念ながらダルマ図は戦災によって失われましたが、最近は名古屋市博物館で先生のダルマ図と同じものが復元されました。

さて、ダルマ図を描いた11後。先生は永楽屋に2両2歩の借金を申し込みます。あらたな旅銭を手にした北斎先生。

旅はまだまだ続きます。


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