北斎先生の生涯③~北斎、天にのぼる編~

北斎先生の生涯3

高井鴻山と葛飾北斎いよいよ今回は先生の晩年を紹介します。先生は九十歳で生涯を閉じる間際まで絵筆をはなさず、まだまだ絵の極意を極めようとする壮絶な言葉を残すのです。また、先生が八十三歳となった年、突如、小布施を訪ね、豪商高井鴻山の援助のもと、東町の祭屋台の天井絵「龍」「鳳凰」図、また上町の祭屋台の天井絵「怒涛図」などの肉筆画の傑作を生み出しています。
それでは北斎先生の最後を詳しく見ていきましょう。


「画狂老人卍」改名と国内の状況

富嶽百景天保五(一八三四)年から、先生は再び名前を変え、「画狂老人卍」という号を用いるようになります。七十五歳の時に、有名な絵本『富嶽百景』を描きます が、このときに「七十五歳前北斎為一改画狂老人卍筆」と記しています。この号は、先生が九十歳でなくなるまで使われました。

天保時代は、冷害や洪水の頻発により、江戸三大飢饉と言われる「天保の大飢饉」が続き、大変苦しい時代でした。中でも飢饉に苦しむ人々を救うため、大阪奉公所の元与力大塩平八郎は、米を買い占める悪徳商人や不正を働く役人を襲撃、「大塩平八郎の乱」と呼ばれる反乱を起こすなど、各地で百姓一揆や騒動が起きていました。また、江戸湾にはアメリカのモリソン号という商船も来航するなど、日本は内外ともに多難な時代を迎えていたのです。


古典を題材とした大作を描く

肉筆画こうした状況の中、北斎先生は、美人画や風景画などの風俗を題材にした作品から離れ、絵本や絵手本を描く一方、次第に肉筆画にのめり込んでいきます。しかも日本や中国の古典に題材を得た大作に力を入れ、肉筆画では「雪中張飛図」、「雪中筍狩」、「富嶽と徐福」、「鐘馗騎獅図」、「文昌星図」、「赤壁の曹操図」などを描いています。また、鷹、雀、蛇と小鳥、ホトトギス、白ネズミ、魚のかれいや鮭、鮎などの動物や花などを描いた『肉筆画帖』があります。絵本では、『富嶽百景』をはじめ、『釈迦一代記図会』、『絵本武蔵鐙』などがあります。

さらに天保十三年から十四年にかけては、日課として「日新除魔」と題した獅子図や獅子舞図を描いています。このように八十歳代の北斎先生は、浮世絵の奥義をきわめようと、猛烈に創作意欲をかき立て、作品を描いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


小布施の北斎先生と高井鴻山

祭屋台天保年間は大飢饉で経済も停滞し、人々の心もす さんだ時代でした。幕府老中水野忠邦は、全国に大変厳しい倹約令や、歌舞伎などの娯楽までを禁止する命令をくだし、徹底的に人々の暮らしを制限しました。 江戸三大革命の一つ「天保の改革」(天保十二年~十四年)です。北斎先生も創作活動を制限されるようになります。失望した先生は、小布施の高井鴻山を訪ね ます。先生が八十三歳の天保十三年の時のことです。鴻山は、小布施のお金持ちの商人で進歩的な知識人でした。十五歳で京都に行き、儒学や陽明学を学び、先 ほどお話しした大塩平八郎らとも親しくなりました。

さらに江戸に出て、国学や蘭学を学んでいます。江戸で鴻山は先生と出会い、親しい関係になっていたのです。
小布施に来た先生を鴻山は快く迎え、屋敷の中に先生専用のアトリエ(碧漪軒)まで造り、創作活動を援助します。

鴻山支援のもと、先生は東町、上町の祭屋台の天井絵を描くなど、大作に打ち込んだのです。その後、先生は四度も小布施を訪ね、鴻山の世話になりながら、岩松院の天井絵などの傑作を残しています。

 

 

 

 


富士越龍図「天我をして五年後の命を保ためしハ真正の画工となるを得べし」。この言葉は、嘉永二(一八四九)年四月十八日、北斎先生が九十歳で亡くなられる間際に、残した言葉です。「天がもう五年、私を生かしてくれれば、私は本物の画家になれたであろう」という意味です。つまり先生は、あと五年あれば絵の本質をきわめることができる と言っています。すごいですね。世の中からは浮世絵の大家、あるいは巨匠と言われた先生ですが、本人はまだ追求しなければならないものがあるのだと言いま す。これこそ本物の芸術家でなければ言えない言葉ではないでしょうか。

先生の最後の傑作に「富士越龍図」があります。富士山から黒雲に乗り、龍が天に昇るこの絵は、巨星北斎が画業を成し遂げ天に昇る図であると捉えると、大変興味深いものがあります。

 

<< 戻る