北斎の周囲にいた浮世絵師たち④

屏風 七小町「鸚鵡(おうむ)小町」

屏風 七小町『鸚鵡小町』六歌仙の一人で絶世の美女だった小野小町が百歳の姥となってからの話「鸚鵡小町」の図。

なぜ鸚鵡かというと──老婆を憐れんで、帝(天皇)は「雲の上は ありし昔に 変らねど 見し玉だれの 内やゆかしき」の和歌を贈ります。彼女は「内ぞゆかしき」と一字だけ変え、「鸚鵡返しという和歌の技法です」と返したというのです。

なるほど。でも絵の小町はおばあさんじゃないし、桜の花びらは?

北斎先生は、「百人一首」で有名な小町の和歌「※花の色は 移りにけりな…」を見る人に思い浮かべるように描いたのでしょうか。
※花は桜のこと

 


北斎先生の尽きない探究心

「世相百面之図」高井鴻山作今も世界中で人気ある北斎先生の「冨嶽三十六景」は何歳ころに描かれたと思いますか?

何と七十歳を超えてからなのですよ。

「北斎の周囲にいた絵師」シリーズ最終回は、年を取っても探究心を失わず、常に新しいことに挑戦し続けた先生のお話です。


風景版画のブームを起こす

「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」先生が読本挿絵で成功を収めたころ、浮世絵界は役者絵の歌川豊国、武者絵の歌川国芳、美人画の渓斎英泉らが個性を競い合っていました。
彼らに対抗して版元と先生が打ち出したのは、風景を主題におく浮世絵=風景版画でした。

旅行が庶民の娯楽のひとつとなっていましたし、先生自身ずいぶん前からほうぼうを歩き、心に残った景色が頭や画帖にストックされていたからです。先生は風景のテーマを富士山にしぼります。

上町祭屋台天井絵「男浪」図

さて、さまざまな場所から富士山を描く「冨嶽三十六景」シリーズは大当たり!
「冨嶽三十六景」は江戸の庶民が熱狂したばかりでなく、外国の芸術家たちも驚かせました。
一度見たら忘れない構図、ベロ藍を主体にしたシンプルで印象的な色使いだったからでしょう。豪華な浮世絵は幕府から罰せられるため、少ない版木・色数に挑戦した先生の努力の結果だったかもしれません。

数年後、歌川広重が描く風景版画シリーズ「東海道五拾三次」がヒットを飛ばします。
「冨嶽三十六景」の構図にびっくりした広重は、先生を尊敬し、だからこそ自分なりの写生画をめざしたそうですよ。

次に先生が滝をテーマに「諸国瀧廻り」を出せば、英泉・広重合作の「木曾海道六拾九次」が出る‥‥というように旅に出かけたくなるような風景版画がさまざま出版されていったのでした。


集大成は肉筆画。
そして、小布施に先生のアートの種がまかれる!!

「富士越龍」そのころの日本は天候不順から人々が苦しんでいました。

先生もさまざまな紙を集めて、肉筆画帖を描いて錦絵問屋の店先で売り、その場をしのいだそうです。酒井抱一や鍬形蕙斎らが次々世を去る寂しさもあったでしょうか、先生は花鳥や、昔から伝わるお話や宗教にテーマをおいた肉筆画に熱中していきました。

八十代も半ば、先生ははるばる信州・小布施にやって来ます。小布施出身の高井鴻山が京都で学問を積み、江戸で先生に出会ったのがきっかけのようです。商業・農業で栄えた小布施には江戸や京都の文化にあこがれをもつ人々がたくさんいました。先生を囲む書画会が開かれ、鴻山や、寺子屋を開いて子どもに手習いを教えていた平松斎らが絵を教わりました。

先生が来訪してくれたお陰で、立派な祭屋台や岩松院の肉筆天井絵などが小布施に残されることになったのです。

先生の絶筆に近い作品とされているのは「富士越龍」。富士山を越えていく黒雲の中の龍の行き先はどこでしょう。
龍が先生を表しているのなら、次にめざしている絵の世界がその先にあるのかも!?

 


冨嶽三十六景めぐり④